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日本、この刻(とき)、ここへ。〜名門ゴルフコースを生んだ、街を訪ねて〜 日本、この刻(とき)、ここへ。〜名門ゴルフコースを生んだ、街を訪ねて〜

第3話
小樽・冬
心地良き静寂
─ ノスタルジーの街・銭函 ─ 繁栄から衰退。そしてこの地に遺されたもの

北海道・小樽
MEMO
マップ

2日目の旅スケジュール

  • 銭函海岸
  • 小樽カントリー倶楽部
  • 銭函駅
  • 食事処 海賊船
銭函海岸。
夏は海水浴客で賑わうという

小樽の旅、最終回は「チョイス誌」(ゴルフダイジェスト刊)が選ぶ日本のベスト100コースのトップ10にも選ばれている屈指の名門コース、小樽カントリー倶楽部、そして、かつてはニシン漁の港町として栄え、今は知る人ぞ知る観光スポットとして注目を集める銭函の街を巡る旅だ。

なぜか懐かしい、そしてほっとする。
そんな風景がつづく銭函の街で、小樽の旅を締めくくろう。

夏であれば、北海道らしい雄大な景観を見せる小樽カントリー倶楽部だが、冬に訪れてみれば、ここにゴルフコースを造ろうとした先人たちの決意に敬意を表さずにはいられない。

小樽カントリー倶楽部
小樽カントリー倶楽部

小樽カントリー倶楽部の創立は1928年(昭和3年)。
三菱鉱業小樽支店長の佐藤棟造が小樽銀行集会所で有志10人による発起人会を開き、小樽ゴルフ倶楽部を発足したのが始まりである。

1930年(昭和5年)7月、7番ホールでのティッショト。
左にはバックを担ぐ少年キャディ、奥には札幌オリンピックでアルペンスキーなどの会場となった手稲山が見える(写真提供:小樽カントリー倶楽部)

銭函には1880年に開通した鉄道の駅がすでにあり“北のウォール街”を舞台に活躍していたビジネスマンたちが通うには、利便性の高い場所だったのだろう。

銭函を通る函館本線のもととなったのは、手宮駅から南小樽駅(手宮線)、さらに札幌までを結んだ北海道最古の路線。開通は1880年

4月29日(金) 天長節 快晴後曇
5:30am起床銭函行 勝、英両児同伴
8:37am色内発~9:05am銭函着
銭函ノ海岸ノ芝地ニテgolfヲナス。

これは、小樽カントリー倶楽部の創設者、佐藤棟造の1928年の日記である。「色内」は、今は廃線となった手宮線の色内駅のこと。
色内駅から子どもたちと列車に乗り、銭函駅で下車、銭函海岸の草地でゴルフをしたというのだ。

もちろん、ゴルフコースが造成される前の話である。

スコットランドのリンクスを思わせる、現在の小樽カントリー倶楽部旧コース(写真提供:小樽カントリー倶楽部)

銭函はかつてニシン漁で栄え「どの漁師の家にも銭箱が積まれていた」ことが地名の由来という説もあるという。

もちろん、札幌市のベッドタウンとなりつつある現在の銭函に、往来の賑わいを感じることはできない。

銭函駅前の食事処、
海賊船。
食事処 海賊船

銭函駅前の食事処、海賊船。温かなもてなしが心地良い

しかし、“北のウォール街”を担った男たちの誇り、そして、ニシン漁で巨万の富を築いた漁師たちの夢のあとは、今も銭函に、日本が誇る名門ゴルフコースとして残されている。

小樽カントリー倶楽部の新コース。
ゴルフ界において最高の権威を持つ日本オープンが1990年、99年の2回、ここ小樽の新コースで開催されている

開拓と栄耀栄華。
急激な衰退と、残された名門ゴルフコース、そして文化遺産の数々。

雪に覆われた冬の小樽には、北海道の歴史を紐解くには欠かせない数多くの物語が刻まれていた。

近年はカメラを片手に、ここにしかない情景を求めて冬の小樽、そして銭函を訪れる観光客も多いという。

次回は「ゴルフリゾートの元祖・雲仙と、奇跡の街・長崎」をお届けします。

文:ゴルフダイジェスト社 出版部長 近藤雅美