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Home > コラム > ゴルフのある暮らし > 長崎・夏 第1話 「世界が驚いた!隠れキリシタンの奇跡 守り続けた信じる心 ─ 苦難の"潜伏"250年 ─」

日本、この刻(とき)、ここへ。〜名門ゴルフコースを生んだ、街を訪ねて〜 日本、この刻(とき)、ここへ。〜名門ゴルフコースを生んだ、街を訪ねて〜

長崎・夏
─ 海とともに歩む、奇跡の絶景 ─

長崎・夏

鎖国の時代には、唯一世界に向けて開かれた“海の玄関”として栄えた長崎。
しかし、鎖国の歴史はまた、禁教の歴史でもあった。
弾圧の苦難や時代の変革を乗り越え、明治期からは近代産業の担い手として日本を牽引、雲仙ゴルフ場を象徴とする、日本のゴルフリゾートの先駆けとしての役割も担ってきた。
その長崎の街に刻まれた“軌跡と奇跡”の風景とは─。

零仙ゴルフ場

1913年(大正2年)に開業した雲仙ゴルフ場。
現存するコースとしては神戸ゴルフ倶楽部に次ぐ歴史を誇る、
国内最古のリゾートコースだ

第1話
世界が驚いた!
隠れキリシタンの奇跡

守り続けた信じる心 ─ 苦難の"潜伏"250年 ─

隠れキリシタンの奇跡
MEMO
マップ

1日目の旅スケジュール

  • 浦上教会(浦上天主堂)
  • 大浦天主堂
  • 出津(しつ)教会堂
  • 出津(しつ)助産院
  • 大野教会堂

奇跡の街・長崎、1日目は、潜伏キリシタンゆかりの地を訪ねる旅だ。

イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが来日したのは1549年、群雄が割拠した“戦国時代”のことである。

鹿児島に着いたザビエルは、翌1550年、平戸に渡り、領主であった松浦隆信の許可を得、布教を始める。
ザビエルが日本を去った後も多くの宣教師たちが留まり、長崎は日本におけるキリスト教布教の中心地となっていく。

1571年には長崎港が開港。
南蛮船が出入りするようになると華やかなキリスト教文化が花開き、 長崎は日本の「小ローマ」と呼ばれるほどの繁栄を遂げた。

南蛮人渡来図

狩野内膳が1600年頃に描いたとされる「南蛮人渡来図」(左隻)。神戸市立博物館所蔵

Photo : Kobe City Museum / DNPartcom

その長崎に暗雲が垂れ込め始めたのは、豊臣秀吉による1587年の「伴天連追放令」以降である。秀吉はさらにイエズス会の宣教師ら26人を長崎の西坂で処刑。日本のキリスト教徒にとっての受難の時代が始まった。

しかし、日本のキリシタンたちはあきらめなかった。信仰を隠して生きる“潜伏キリシタン”となる道を選んだのである。

聖母マリア

数多くの潜伏キリシタンたちが暮らした外海(そとめ)の出津(しつ)集落。
生涯をかけてこの地域の社会福祉に貢献したド・ロ神父が掘ったと言われる井戸の脇には、聖母マリアが佇んでいた

踏み絵の地に建てられた
浦上天主堂
浦上天主堂

秀吉が死に実権を握った徳川家康は、幕藩体制を整えると1614年「禁教令」を出す。「宣教師は外国を植民地化するために送り込まれた先兵である」という風評への恐れ、そして「神のもとでは、皆平等である」という思想が幕藩体制にとっては不都合なものだったことが原因だったのだろう。

キリスト教を「邪宗門」(邪悪な宗教)とみなした徳川幕府が“潜伏キリシタン”に行った最大の弾圧は、踏み絵である。
浦上教会、通称・浦上天主堂は、その踏み絵が行われた庄屋の屋敷跡に建てられたものだ。

大聖堂

1880年に建立された最初の大聖堂は原爆で焼失。
現在の大聖堂は1959年に再建されたもの

禁教以降“潜伏キリシタン” の中心地となった浦上地区には、いくども過酷な取り締まりが行われた。“浦上崩れ”と呼ばれ1790年から四度に渡り江戸幕府が行ったキリシタン検挙では、多数の信者が殉教している。

弾圧の時代が終わり、浦上の地に戻った信徒たちが欲した信仰のよりどころである大聖堂が建てられたのは1880年。“神の家”は、もっともふさわしいこの殉教の地、浦上の丘に建てられたのである。

首のない聖像

弾圧の時代が終わり“神の家”が建てられた浦上を、1945年、8月9日、原子爆弾が襲う。この地区のキリスト教信者15,000人のうち、1万人の尊い命が奪われたという。
教会の丘の上から長崎の街を見守る“首のない聖像”は、悲劇と、その悲劇に負けることのない、浦上の象徴なのかもしれない

信徒発見の地、
大浦天主堂
大浦天主堂

幕末の開国により禁教令は少しずつ緩和され、多数の宣教師が日本を訪れるようになる。1862年(新選組の募集が始まった年)に来日したフランス人の宣教師ベルナール・プティジャンが建てたのが、信徒発見の地として名高い、大浦天主堂である。

教会堂 教会堂

丘の上にそびえる大浦天主堂。
世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つであり、1864年に建てられた日本現存最古の教会堂として、国宝にも選ばれている

1865年3月17日、大浦天主堂を訪れた一団がプティジャン神父に、自分たちはキリシタンであると信仰を告白した。これが日本の、そして世界のキリスト教の歴史においても奇跡と称される“信徒発見”である。

「信徒発見」のニュースは即座に神父からバチカンに伝えられた。その知らせに当時のローマ教皇ピオ9世は「東洋の奇跡」と驚愕したという。

日本之聖母像

「日本之聖母像」と呼ばれるこの像は、「日本に数多くの潜伏キリシタンたちがいた」というニュースが全世界に伝えられた際に、フランスからその記念として贈られたもの。
プティジャン司教は1867年の6月2日に、天主堂の門前へこの像を安置し、日本信徒発見の記念式典を盛大に催したという

潜伏キリシタンへの愛を貫いた
ド・ロ神父の軌跡

ド・ロ神父

長崎に大きな足跡を残した宣教師がもう一人いる。
布教活動と共に産業と文化を伝えた、ド・ロ神父である。

マルコ・マリー・ド・ロ神父の像

外海の「ド・ロ神父記念館」に立てられた、マルコ・マリー・ド・ロ神父の像。
1885年に神父自らが鰯網工場として設計、施工し、その後、保育所として使用された建物が、今は記念館として使われている

マルコ・マリー・ド・ロ神父は、1840年(天保11年)、フランスの貴族の次男として誕生し、神学校卒業後、東洋布教のためパリ外国人宣教会に入会。禁教令が緩和されたとはいえ、まだキリシタン弾圧が続いていた1868年(明治元年)に来日、長崎や横浜で数々の功績を残した。

出津集落

密かに潜伏し、自分たちの信仰を守り続けた外海の出津(しつ)集落。
遠藤周作の小説「沈黙」は、ここがモデルとなって書かれた

外海(そとめ)へ赴任してからは布教活動とともに、フランスで学んだ建築・医学・農業などの幅広い分野の知識を活かし、「隣人を自分のように愛しなさい」というキリスト教の教えを実践。深い人類愛の精神で外海の人々のために力を注ぎ、1914年(大正3年)に74歳で天国に旅立っている。

出津教会堂

1882年、250年以上にわたる潜伏が終わりを迎えたことを象徴するようにド・ロ神父により建てられた出津(しつ)教会堂

旧出津教会堂

旧出津救助院。1883年に、ド・ロ神父が女性の自立支援のための作業場として建てた施設。織物、縫物、素麺などの食品加工などが行われた。

26世帯のために建てられた
大野教会堂

大野教会堂

出津(しつ)の集落から北へ約3キロ。少し無理をしても訪れておきたいのが、急な坂道の先にポツンと佇む、大野教会堂である。
大野は、1599年の平戸の領主・松浦氏による弾圧から逃れたキリシタン、籠手田一族ゆかりの地と言われる。
禁教の時代が終わり信徒として名乗りを上げた26軒の大野集落の住民のために、1893年、ド・ロ神父が設計し、私財を投じて建てたのが、この教会だ。

大野教会堂

数少ない巡回教会の意向として、歴史的価値も高い大野教会堂。
残念ながら、内部は非公開

ド・ロ壁

割石を漆喰で固めた独特な石積みは「ド・ロ壁」と呼ばれる。
建物の近くで採れる石が使われたため、大野(上)と出津(下)では、壁の色や石積みの形がまったく異なる

ド・ロ壁

殉教の地から再生の地、そして出津、大野の教会を巡る長崎の旅。

そこには、ド・ロ神父をはじめとする、幕末に海を越え、生死を顧みず禁教下の日本を訪れた宣教師たちの“無償の愛”の物語と、その心を今に伝える長崎の人々の生きざまが、今も色濃く残されていた。

歴史の道

割出津教会堂から旧出津救助院へと向かう坂道。
ド・ロ神父が毎日歩んだというこの道は、布教だけでなく人類愛の精神をこの地で示した神父の心を伝える歴史的に意義深い小径として「歴史の道」と名付けられている。

第2話「出島から奇跡の産業革命遺産へ」につづく