第3話
ゴルフリゾートの原点・雲仙ゴルフ場と、
観光都市・長崎
3日目の旅スケジュール
- 島原鉄道(しまばらカフェトレイン乗車)
- 島原鉄道・大三東(おおみさき)駅
- 雲仙ゴルフ場
- 雲仙温泉
長崎・夏。最終日は、長崎の未来のために奔走し、数々の偉業を成し遂げた人々の、願いと苦悩に想いを馳せる、
19世紀の終り頃から外国人に人気のリゾート地として栄えた雲仙温泉周辺、そして1913年に誕生した日本初のパブリックゴルフコース、雲仙ゴルフ場を訪れる。
温泉地としての雲仙の歴史は、1637年、島原の乱の後、新しく島原城主となった高力(こうりき)忠房(ただふさ)の家臣、加藤善左衛門が共同浴場を開いたのが始まりとされる。それ以前から霊山として知名度が高かった雲仙の地には、全国各地から湯治客が訪れたという。
その雲仙が日本初のゴルフリゾートとなったきっかけは、海外からの避暑客が増加したことだった。
長きにわたる鎖国の時代を終え、石炭や海産物などの輸出港として栄えた長崎を訪れる外国人は数多く、なかでも多数を占めたのが、中国の上海を経由してやってくる西洋人たちだった。
その西洋人たちに向けて書かれた「Unzen and round about it」と題するコラムが、1889年(明治22 年)、上海の新聞ノース・チャイナ・ヘラルド9月28日号に掲載される。観光地としての雲仙の魅力を紹介したこの記事を読んだ西洋人たちが、以降続々と雲仙を訪れることとなる。
外国人向けリゾートとして認知され始めた雲仙を、さらに発展させようと考えたのは長崎県であった。
温泉医学の権威として今も名を遺す、東京大学医学部名誉教授であったベルツ博士からの「温泉保養公園として整備すべきである」という提言を受け、雲仙に県立公園を設置する計画が進められ、1910年、県議会で決議される。
これに前後して雲仙に従来からある温泉旅館は一部が外国人用に改築され、純洋式ホテルやダンスホールなども建設された。そしてさらに、外国人誘致のためにゴルフ場を造ろうという計画が持ち上がる。
まるで映画のワンシーン!
しまてつカフェトレイン
ゴルフ場を訪れる前に紹介しておかなくてはならないのが、島原半島と有明海の長閑(のどか)な景観を見ながら走る島原鉄道だ。
島原鉄道の歴史は古く、開業は1911年。新橋、横浜間を走った1号機関車が払い下げられ運航を開始している。
諫早駅から出発したカフェトレインは途中、「日本一海に近い駅」のひとつ、大三東(おおみさき)駅に約45分間停車する。
有明海に面した大三東駅は天候や潮の満ち干で刻々と異なる景色を見せてくれるビュースポット。風景を堪能し、一定期間が過ぎると神社に奉納されるという「幸せの黄色いハンカチ」に願い事を書いていると、45分の停車時間はあっという間にすぎてしまう。
カフェトレインの終着駅・島原から雲仙ゴルフ場まではバスで40分。
ゴルフ場まで車で3分の雲仙温泉に泊まって、翌日プレーするのもいいだろう。
日本で二番目に古いコース
雲仙ゴルフ場
現存するコースとしては、神戸ゴルフ倶楽部(1903年創立)に次ぐ歴史を持つ雲仙ゴルフ場が、日本最古の公営コースとして開業したのは1913年(大正2年)のことである。
日本にいくつかのコースは造られていたが、プレーするのは外国人ばかりという時代。日本人にとっては未知のものであったゴルフ場の造成に奔走したのは、長崎を舞台に国際交流に力を注いでいた、
明治維新、そして日本の近代化に大きな影響を及ぼした貿易商、トーマス・グラバーと日本人の妻の間に生まれた富三郎は、学習院を創業すると米国に留学。
ペンシルバニア大学などで学び、1892年(明治25年)に帰国すると、貿易や商社の代理店として長崎、日本の近代化を支えたホーム・リンガー商会に入社。その後、日本国籍をとり「倉場富三郎」を名乗った。
後年には長崎汽船漁業会社を設立。日本で初めて蒸気トロール船を導入、磯漁中心であった長崎の漁業を一新させる。現在の長崎の水産業の礎を築いたのは、富三郎だともいわれている。
雲仙ゴルフ場に残る、
倉場富三郎(1871〜1945)
のプレー姿
1899年には、在留外国人と日本人の社交の場として長崎内外倶楽部を設立するなど、長崎を愛し、日本と諸外国の架け橋たらんとした倉場富三郎。
西洋の文化であるゴルフを日本に根付かせるきっかけのひとつとなった雲仙ゴルフ場の開場は、富三郎にとって夢へとつづく、大きな一歩だったに違いない。
数々の偉業を成し遂げた富三郎だったが、その晩年は恵まれたものではなかった。
太平洋戦争が始まる2年前の1939年、富三郎は父トーマス・グラバーから受け継いだ「グラバー邸」を、当時の三菱重工長崎造船所へ売却。丘の麓へと引っ越す。
突然の引っ越しの原因は、日英両国の血を引くためスパイ容疑をかけられた富三郎が、戦艦「武蔵」を建造中の長崎造船所を一望できる「グラバー邸」に住まうことを憚(はばか)ったためといわれている。
世界と日本の交流に奔走し、その架け橋たらんとした富三郎を待っていたのは、スパイの疑いをかけられて生きるという、耐え難い日々だった。その苦悩からか、長崎に原爆が投下された2週間後、富三郎は自ら命を絶ってしまう。
富三郎が残した多額の遺産は、復興のために使ってほしいという遺言により、愛する長崎へと寄贈されている。
ちゃんぽん、カステラなど、長崎に名物は多いが、ぜひとも食べてほしいのはトンカツ、ナポリタン、ピラフを一皿に盛った「トルコライス」だ。
60年前に考案されたという「トルコライス」の由来には、「西洋とアジアの架け橋であるトルコにちなんで名づけられた」など諸説あるが、いずれにしても、文化の窓口としての役割を担いつづけてきた長崎に、これほどふさわしい料理はないと思うのだ。